父を見送りました

ぽつりぽつりと書いていたのですが・・11月3日深夜に父がみまかりました。
3日の21時頃に兄から電話。最近の傾向として直電はだいたいよくないことで・・。普段のやり取りは、急がないものはFBのメッセージ、確実に見てほしいのは携帯キャリアのmailって感じで・・。
曰くよくない知らせ、父の呼吸が止まったと病院から連絡があったとのこと。まだ勤務先(つくば)だがこれから病院に向かうとのことでした。
僕はもうどうしようもないので、連絡を待ちますと伝えて・・たぶんダメだろうなぁと思いつつ淡々としていました。
結局23時半位に再び電話があり、今亡くなったとのこと。
母の問題もあり連れて帰れそうにないので、葬儀社さんの紹介で施設に預かって頂くことになりました。なので急いで帰ってもどうしようもないし、4・5日ときちっと仕事をこなして帰宅することにしました。
翌日には葬儀日程・場所も決まり・・仕事の速い人ですね。しかも葬儀社さんもとても行き届いている感じがしました。
6日に葬儀の打合せを葬儀社さんと行うので同席してほしいとのことだったので、横浜へ。
葬儀社さんの人と打合せ。とても行き届いた人でとても好感が持てます。ほぼそこで全て決まって僕は一旦千葉へ戻りました。「親父に会って行くか?」と聞かれたのですが、またそれで兄の手を煩わすのも何なので明日迎えに行く時に会えるからいい、と断って帰宅。お嫁さんのちゃんとしたご飯はこの夜だけ・・。それがちょっと悲しい。
翌日、朝父を迎えに行き、自宅前とお勤めをしていた県庁の前を通ってもらって式場へ。僕らはとりあえず一旦横浜の実家に戻りました。
父は・・おじいちゃんそっくりになっていました。最後少し苦しかったかな?何回もよしよししてあげました。
夕方式場へ行くと納棺師さんがとても整えて下さって、母は初めて「亡くなったのはお父さんなんだ」、と判ってくれたようでした。曰く「ちょっと声かければ起きるんじゃないか?」って。
それからお通夜、親戚だけで内々に、というかたちで考えていたので(だって、父の交友関係なんて知らないし、母はあてにならないし・・ね)ほんとうにそんな感じでした。従姉妹達も来てくれてとてもうれしかった。そして僕はそのままお泊り。
お寺さん?式場での夜は長かったような、短かったような。お通夜の残り物を頂きながら過ごしました。
朝寝ていられないのはどこでも同じでもう早朝に起きだして、反町の松屋へ朝ご飯。コーヒーを買ってけっこうぼんやり過ごしていました。
お寺の人が起きだしてきて、暫くすると葬儀社さんの担当の方が。
雑談する時間があったので、あなたはおそらくどこでも通用すると思うのですが、どうしてこのお仕事を選んだのですか?と少し意地悪な質問を。・・まだ新卒で1年経っていないそうです。なのにまるで10年もこの仕事を仕切っているような行き届いた仕事ぶりで感心していました。
答えはとても優等生だったのですが、いろいろな思いがあるのでしょうね。少なくとも僕の勤務先は自分たちの仕事に誇りが持てるようなことをしていないし、それが伝わらないので人が集らないのでしょうね。
だんだん人が集ってきて、にぎやかになってきました。
告別式も無事終って、お棺の蓋を閉める儀式?そのまま斎場へ向かう親類とお花をいっぱい入れてあげました。
いままでポーカーフェイスだった娘が号泣しだして、あやうく泣きそうでした。なんとかみんな鼻にながして耐えました。
そして斎場へ。さようなら、いい親父だったよ。
両足の付根の金具が出てきました。骨壺の中にはいれないのだそうですが、あとで骨が足りん、と怒られないかな?と思いました。けっこうおこりんぼの父だったので。
待つ間、住職とお話し。父方の本家が山梨の塩山にあるのですがその菩提寺です。兄が父の名代でここ5〜6年位は法事に出ていたようだったので全く知らない訳ではなかったようです。
無宗教でやろうかと思っていたそうなのですが、葬儀社さんからの勧めもあって連絡を取ってみたようです。そうしたらわざわざこちらまで泊りで出向いて頂いて・・ありがたいような、怖いような(笑)。
勝沼から車だそうです。そういえば山梨ナンバーの走り屋仕様の車が駐車場にあったけれどあれなのね(笑)。
そして、初七日を済ませてお仕舞いになりました。
くたびれた〜。

翌日、床屋を済ませて横浜へ。そしてそのまま姫路へもどる準備をして。
四十九日の打合せと場所の確認。墓地・・すでに用意していました、なんでも僕のお嫁さんの両親がそうしていたのをどこかで聞いたらしく、生前父に墓だけは自分で手配しておいてくれと兄が言っていたみたいで・・ガーデン山の商店街の裏にありました。
そこで四十九日の法要もおこなうことで打合せ、僕は新横浜から姫路へ。
なんだか、あわただしい野辺送りでした。

でも、なんで「無限の空へ」何だろう??。