doperだったけれど、最低じゃない

タイラー・ハミルトンの「シークレット・レース」を読み終わりました。
月曜日の帰りに勝田台のくまざわ書店でろくに探しもせずレジで「ありますか?」と聞いて(笑)、棚から持ってきてもらうという失態を演じてしまいました。

シークレット・レース (小学館文庫)

シークレット・レース (小学館文庫)

僕はフェスティナ事件をリアルタイムでは知らないのだけれど、実は知識としてもあまり知らなくて・・ああそういうことねって。もし実際にリアルタイムに知っていたらもう少しひどい現実を実感していたと思います。
でも基本的に、プロの自転車競技を見ていて、ドーピングはその世界に深く根ざしており、勝負を競う局面にいる人達はおそらくそれを抜きにはそこにいる事も出来ないものなのだと言う認識を僕は持っています。
だから、プロのレースはそれを込みにして、それが行われていることを前提に・・まぁ楽しんでいた訳で、いまさらドーピングをしていないことを求めるような野暮な事はしないよ、と思っていました。
実際に、スポーツでこんな難行苦行なものもおそらく珍しくて、ちょっと異常だと思っています。アマチュアのレベルでも十分異常です。こんなに簡単に無酸素域に入れる、最大心拍まで使って運動出来るものはないでしょうね。
同時に、アンチドーピングの行き過ぎた規制には「はたしてこれを守って、人権が守られている、文化的な、人間的な生活がおくれるのだろうか?」とも思っています。
性悪説に立つと、そんなこと些細な事になるんでしょうね・・ヨーロッパの文化的背景がよくわかる事例ですね。


だから、このインタビューの最後に出てきたハミルトンの「僕はドーパーだけれど、最低じゃない」という言葉が、僕がその位置にいる(或はいた)競技者達に感じていた事ととても似ていました。


だから、今もなお正義を振りかざして彼らを断罪する事にとても違和感を持っています。
かといって、ドーピングが横行している(していた?)現状がよいとは思いませんけれど。