高森さんのこと

(5月7日すこし訂正です。)
5日夕方、僕は姫路に向けて車を走らせていました。
休憩と夕食で寄った足柄SAで、僕はそれを知りました。
航空部同期会のLINEのリンクをたどると、それはどうみても304CZにしか見えませんでした。
所有者は2人、どちらも親友(と僕が勝手に思っているだけかもしれないけれど・・)。
ぐるぐるする頭でお嫁さんに連絡を取って続報と取ってもらう事にして、姫路へ向かいました。
ふと気がつき、何気なくFacebookに入ったら2人のうちの1人の所有者・・滝川くんはつい数分前のログイン履歴があるではないですか。おそるおそる、「生きている?」とだけメッセージ。もちろん彼が生きているという事は・・ということなのだけれど・・。
数分後、彼からサムアップのアイコンだけ帰ってきました。安堵と絶望が同時にやってきました。
もうそれからは、運転もうわのそらで大幅に予定を超過して深夜3時着。


高森さんとの出会いは、角田でした。今を去る事2005年の5月連休に自転車で角田に行った時でした。当時福島在住だった高森さんに郡山の下宿まで送って頂いたのが最初です。
(追記:と当初書いたのですが、思い出しました・・初めて会ったのはその前の年です。やっぱり連休だったかな?車で角田を訪れて、L13の後に乗ってもらった事がありました。その頃304CZを買う話が出ていて・・とても愉快な思い出があります。ここではナイショ。)
その年は「魔の2005年」「恐怖の2005年」と言われていた年で、(僕がそう勝手に呼んでいたのかもしれないけれど)彼の出身団体だった学連西部支部の中村さんが事故で亡くなった年でもありました。
僕はその後の自身にとっても「ありえない」自転車での交通事故で死にそうになって、「自分だけは大丈夫」という変な自信というか思い込みが違う事を悟り、一旦グライダーから離れる事を決めたきっかけの年でもありました。


実生活、・・仕事関係でも交流のあった人でもありました。彼を知っていて、居てくれた事でとても助けられた事がありました。
角田に行ってからしばらくして、会社のアシスタントの女性が退職する事になりました。彼女はもともと幼稚園教諭の志望があった事は知っていて、どうもそのチャンスが巡ってきたらしい事も薄々解っていました。
(追記:上記追記と同様で、これが2005年4月頃の話です(笑)。2005年の連休のとき既にこの話題でギャグを振られていました。)
なので、笑顔で送り出したのですが・・その事業所で求人の伝手がない事が判明。だれも人を雇うことに責任をもって動こうとしませんでした。困った僕は、とっさに高森さんが福島市で人材派遣会社に勤めている事を思い出して・・連絡先が解らないので・・休暇中で角田で多分飛んでいるだろう人(クッチーね)の携帯を鳴らし、幸いな事にまだ離陸していなかったため、高森さんの携帯番号を教えてもらう事に成功しました。
当然仕事中だったでしょうから、伝言を入れておいたのですが・・予期しない位早く対応が来て、すぐに人を当たってもらう事にしました。
契約とかで何度か来店いただいたのですが、お互い普段の姿を晒して照れるやらなにやらで。
1人めの人は合わなかったのか、すぐに来なくなってしまい、もうひとり紹介してもらって、その人がその後数年に渡って勤めてくれました。なかなかいい人で僕はとても助けられました。
その後、僕は郡山を離れ、グライダーからも離れ・・疎遠になっていましたがFacebookとかで緩くつながりは続いていました。


一緒の空を飛んだ事はなかったけれど、一緒に飛んでみたかったなぁ。
ご冥福を心から祈ります。
あなたがいなくなってとてもさみしいです。